瞑想の時間
毎朝5時に起きて30分間、瞑想しています。
この瞑想の時間って私にとってとても大切な時間です。
頭の中のもやもやを消してくれる時間でもあり、なんだか知恵もついてきているような気がします。
いろいろな物事が子供のように興味が出てきて吸収できるようになったといいますか、
いろんなことが楽しくなってきたんです。
これが瞑想の効果なのか分かりませんが、頭の中を整理することが出来る瞑想ってすごいなって思います。
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毎朝5時に起きて30分間、瞑想しています。
この瞑想の時間って私にとってとても大切な時間です。
頭の中のもやもやを消してくれる時間でもあり、なんだか知恵もついてきているような気がします。
いろいろな物事が子供のように興味が出てきて吸収できるようになったといいますか、
いろんなことが楽しくなってきたんです。
これが瞑想の効果なのか分かりませんが、頭の中を整理することが出来る瞑想ってすごいなって思います。
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人間は汚いものです。汚物をそこら中から出します。
ですので人間が生活するということは周りも汚れていくことになるんですね。
そこで掃除が必要になるんです。
この掃除というものは結構面倒ものです。
それもそのはずです。
最初に書きましたように人間がいる限り、掃除しても掃除しても汚れるのですから・・・
それでも掃除をしなければゴミだらけになっていきます。
でも面倒だ。
だれか変わりにしてくれないか。
というようにどんどん悪い心が出てくるのです。
掃除というものは、この悪い心をきれいにする行為(修行)なんじゃないかと思うんです。
ですので、掃除をするときはきれいな心でしないと意味がないんです。
悪い心を出しながらやるのなら結局汚れちゃうんですから。
その悪い心とは怠惰だったり、怒りだったり、潔癖症もその一つだと思います。
汚い汚いと思いながら嫌々やったり、ピカピカにならない(少しでも汚れている)と気がすまないというような心です。
こんなお話があります。
仏陀の時代の話ですが、ある比丘がRevata大阿羅漢の庵に住み、朝も昼も夕方も夜も、いつも箒を手放すことなく掃除に専念していました。この比丘は正直者で、「とにかく朝から晩まで何かをしていれば修行になるのではないか」と思っていたのです。「信者さんの御布施を戴いて何もしないでいることは、出家者としてふさわしくない生き方だ」と思っていたのです。仕事といっても出家者には他にやることがないのだから、掃除ばかりしていたのです。彼は、作務を熱心にすることで立派な修行者になれるのではないかと思っていたのです。その彼が、ある日の午後、掃除が殊のほか忙しかったのか、坐ってサマーディに入っていたRevata長老に向かって、「怠けるな」と言ってしまったのです。それに対して長老は、「掃除は一日一回で充分です。ホンモノの仏道はこころの掃除なのです」と彼を諭しました。その比丘は、その言葉を聞いて深く反省し、それからよく修行に励みました。掃除が一日一回になったものですから、庵の周辺は以前ほどきれいではなくなり、他の比丘たちが掃除を怠けているのではないかと彼に糺しました。彼は、「昔怠けていたときには、一日中よく掃除をしたものです。いまはこころから怠けが消えたので、掃除のことはそれほど気にしません」と言いました。比丘達はそれを聞いて、「彼は自分が悟っていると言っている」と、お釈迦さまに報告しました。お釈迦さまは、その比丘が悟ったことを認められたということです。
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「お釈迦さまが教えたこと3 有意義な生き方」
「根本仏教講義 4.死んだらどうなるか」
を参考にしています。
前回、因縁があるかぎり現象は消えることはないと書きました。
生きているこの状態も現象でありますし、現象は無常なんです。
新しい現象が生まれ続ける連鎖反応の状態です。
薪があるとします。
これも現象です。
ですので無常です。
薪が燃えると薪は消えますが煙と火という結果が生まれてきます。
そしてその煙と火もまた原因となり結果が生まれるのです。
こうして現象は連鎖しつづけ止まることはありません。
人間の体だってそうです。
心に関してはもっと難しくなりますし、理解は出来ません・・・
それよりも何より、死んだら何も無くなるとしたら辛すぎます。
それで死んだらどうにかなるとなぐさめてくれるのが世の宗教です。
お釈迦様の場合は、死後のことは殆ど話さなかったそうです。
死んだ後のことなんて、結局はわからないからです。
それよりもどう生きるかなんですね。
もし死後に何か世界があったとしても、今世で道徳を守って生活するならば、来世でもいいところに生まれるんです。
今世で悪いことをして生活をすれば今世も不幸になるのですから、来世も不幸になるんです。
ですので、死後のことを考えてもしょうがないよということが言いたかったのです。
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輪廻転生についての考察です。
このことは、実際わからないことですし、きちんと説明できるかどうかもわからないのであまり書きたくはない部類のお話ですが偽さんのコメントにもありましたし、最近本当に身近に起きる出来事、死ということに関する重要なキーワードですので書いておきます。
「お釈迦さまが教えたこと3 有意義な生き方」
を参考としております。
まずは3つの人生論を先に考察してみたいと思います。
1.人生は死んだら終わり。あとは何もなくなる
この人生論ですと、生きているうちにどんな罪を犯してでも自分の幸福のために動いたほうがよいという結果になってしまいます。
すなわちとても危険な考え方となります。
2.死後はみな浄土に行く
どんな悪いことをしても浄土に行くというのは変ですよね。
それに生きていることは基本的には苦ですから、この人生論でいくと、出来るだけ早く死んだほうが得ということになってしまいます。
3.死後は永遠の天国か永遠の地獄に行く
この人生論ですとちょっとした罪を犯してしまえば永遠の地獄行きです。
また神を信じれば、神が罪を許してくれるならば、人を殺しても許されるはずですよね?
これら3つの考えに対して輪廻転生という考え方があります。
生命は輪廻する。物事は因縁によってなりたつのだから、因と縁があるかぎり現象は消えることはない。というものです。
生命はものすごいエネルギーのかたまりですから肉体と心が死でバラバラになって分解してしまっても、必ず何かになるのです。
次回はもうすこし詳しく書きます。
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身内に不幸がありまして更新が滞っておりました。
それにしても死というのは、すごく身近なものなんですね。
ですが身近な人の死を目の当たりにするとつくづく実感します。
ああ、自分もやがては死ぬんだなと・・・・
普段は寂しくなったり怖くなったりしますから死から目をそむけていますが、人は、いえ生命あるものはいつか死ぬんです。
死ぬと身体だけ残して心が抜けて行きます。
本当に物体になっちゃうんですね。
いままで残してきたお金や物などの資産や知識とかすべておいていかなくてはならなくなります。
ですのでそういったものに執着するということは馬鹿らしくなっちゃいます。
生きているうちに一生懸命かき集めたそれらのものは死をむかえた瞬間に自分のものではなくなってしまうのです。
何のためにがんばって集めたのかってことになっちゃいます。
もし来世というものがあったとしても、生まれたときには赤ちゃんなのですから知識すら残ってないことは分かりますよね?
ですが生まれる場所というか環境というものはそれぞれ違うわけで幸せなところに生まれるかどうかは分かれるのかもしれません。
それが前世の行いによって決まるというのはなんとなく分かる気がします。
でも実際、死→生のルートは誰も記憶がないわけで説明できる人なんていないのです。
ですので死→生のルートすらあるのかすら分からないのです。
もしかしたら死→無かもしれません・・・
ですが、死んだらなにもなくなっちゃうと考えると怖いですよね?
そういったところから極楽浄土とか天国とか、そういった概念が生まれたのだと思います。
結局のところは死んだ後どうなるかなんてわからないんです。
分かっていれば答えは一つになり、はっきりとしているはずです。
ですがそうじゃないので分からないのです。
わからないことを考えてもしょうがないんです。
ですが、その先があろうとなかろうと今生で善い生き方をすればいいということです。
そうすればもし来世があったとしても善いところに生まれますし、何よりも今世が幸せになります。
死というものを考えたとき、今という一瞬が有限であるということを思い出します。
一日という単位は人間が勝手に決めたものですが、生きているということは一日一日を消化していくということです。
残りの日数も決まっています。
それなのに一日をだらだら過ごすということはもったいないことです。
そう考えると一生って長いものではないんだなと改めて実感しました。
死についは、まだまだ色々書きたいことがありますが長くなりそうなのでこの辺にしておきます。
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以前、盲信してはいけないと言われてからいろんな分野の本や、仏教の中でもいろんな人の本などを見たりしていますが、NHKの「こころの時代」という番組も見るようになりました。
その中で相国寺・金閣寺・銀閣寺の住職である有馬頼底禅師のお話にとても感銘をうけました。
そこでさっそく有馬禅師の本
「無の道を生きる」
「自在力」
の2冊を購入しました。
また読んで勉強をしたいと思います。
3つの生きている目的と意味
1.無
以前にも書きましたが、生きている目的や意味なんてないんです。
何も無い状態で生まれてきて、何にも持たずに死んでいくんです。
ですので無いのです。
途中で色々くっついて肥えていくのですが、それとともにこだわりとか余分なものがいっぱいくっついていきます。
それを捨て去ることが必要なんですね。
2.人格
それでも目的や意味がないと何ですので作るわけです。
それは人それぞれなわけですが、私が教えられたのは(有馬禅師のお話で)悪い方向へいかないようにすること、人格を高めることです。
そして自分自身を知ることです。
自分自身を知ることはすべてを知るということです。
3.道
人格を高めるといってもどうやったらいいのかよくわかりません。
そこでお釈迦様が説かれた八正道という道があるのです。
八正道に沿って生きていけばいいのです。
これが生きるうえでのフレームワークとなるのです。
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善友シリーズのピックアップandまとめは今日で最後です。
友人へ
雇っている人へ
雇われている人へ
これまで、善友との付き合い方をピックアップしてきましたが、どれも当たり前と思われるようなことでした。
ですが、きちんと出来ているかといいますと、そうでもないところもあるのです。
当たり前すぎて見逃しているのかも知れませんね。
今まで、このように出来なかった部分も多々あるとは思いますが、これからは気をつけながら出来るようにしていきたいと思いますのでよろしくお願いします。
善友へ感謝です。
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一番長く一緒にいるということから、夫婦という人間関係は一番大切なのではないでしょうか。
むずかしいことは続かないものですが、この夫婦円満の秘訣なら続きそうです。
夫から奥さんへ
奥さんから夫へ
こういった簡単で当たり前のようなことが出来ないとだめなんですね。
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弟子から師へ
師から弟子へ
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善友って滅多に出来ないもので、一人でもいれば幸せなようです。
二、三人もいれば最高に幸せなようです。
だからといって、周りにいないわけではないのです。
自分のことを心配してくれる親は善友なのです。
<子が親になすべきこと>
当たり前のことのようですが、このことを守っていれば、親孝行になるのです。
<親が子になすべきこと>
こちらも当たり前のことのようですが、なかなか出来ないようです。
現代の親は倫理観がムチャクチャで、何が良いことか悪いことか分かっていないのです。見栄を張るのが良いことだ、威張るのは良いことだと思って、そういうことを子供に教える親もいるのです。
ですので、親も勉強して善悪を知ることが必要となるのです。
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最初は、モチベーションを高めるためにその方法について調べていました。
モチベーションを高める。すなわち輝いている人になりたい。
心の中からパワーがみなぎっている人、そんな人になりたい。
そんなことを調べていたのです。
で、気づいたことがありました。
モチベーションとはまったく別のことです。
まあでも折角ですから、モチベーションについても書きたいと思います。
ちょっと長くなりますが・・・
まず、モチベーションについて調べたところライフハック的なところではこんな内容の記事が見つかりました。
元ネタ
http://zenhabits.net/2007/02/top-20-motivation-hacks-overview/
参考記事
http://d.hatena.ne.jp/bambix/20070514/1179153919
なんとなく、よく見かけるような自己啓発的なものですね。
参考にはなるとは思いますが。
それでは、仏教的な面で見てみたいと思います。
参考記事:http://d.hatena.ne.jp/ajita/20061125
ちょっと分かりにくいですね。
ですが、注目する点がありました。
それは善心所というところです。
モチベーションを高めるには善心所が必要なんです。
それで心所についての書籍「心の中はどうなっているの?」からまとめてみました。
モチベーションを仏教的に高めるには、
これで高めることは出来ます。
これがとても自分の中でマッチしたんですね。
ですが、ふと気づいたんです。
この前の仏教的な見解の部分の
「寿命は短いので、人生には「目的の選択」が必要です。」
というところと、気づいた部分が一致したんです。
今、基本情報技術者試験の勉強をしています。
自分にとっては、想像以上に難しいです。
それにもかかわらず、試験までの日数も残りわずかでありながら、他にもやりたいことや、やらなければいけないことが沢山出てきます。
勉強だけに専念出来ないのですね。
残り2ヶ月間、必死に勉強だけすれば確実に受かるかもしれませんが、
他の事に時間を取られると、結構厳しい状況です。
これは、まさしく寿命は短いので目的の選択が必要ということの縮図なんだと思います。
例えば、大卒の人がいるとします。(自分は大卒ではありません・・・)
ですが、高卒の人から見ればこんな見方をする人が多いのではないでしょうか。
大学に行ったって遊ぶだけだし、お金が勿体ない。
勉強なんて大して役に立たない。
早いうちに働いて社会に出たほうが経験も積めるしそっちのがいい。
たとえこれが嫉妬ではないとしたとしても、やっぱり違うんじゃないかと気づいたわけです。
どんな大学であれ、入学するために受験勉強という行為をして入学したはずです。
そして、その間は他の事を犠牲にして勉強に専念したのですね。
この受験勉強のために他の事を犠牲にしていない人たちには、そのことが分からないのです。
他の事を犠牲にしたからこそ、大卒という資格を取れたわけです。
それが役に立つか立たないかは別として、その人たちは何かを犠牲にしたのです。
別の見方をすれば、子供を育てた母親だってそうです。
他の事を犠牲にして、自分のやりたいことを犠牲にして子育てをしたのです。
この何かを犠牲にするということは、目的を選択するということです。
大きなことを成し遂げようとすれば、大きな犠牲が必要となるのです。
それが目的を達成することであり、そう簡単ではないと分かります。
ですので、紙に書いて目に付くところに貼るとか、誰かに公表するとか、ライバルを見つけるとか、そういった次元の問題ではなく、
モチベーションというものは高めるとかそういったものではなく、
人生(時間・寿命)をどれだけその目的のために使用するか、燃焼するかということなんじゃないでしょうか。
100時間あれば100時間中何時間、その目的のために費やしたか、嫌々ではなく、自ら進んで、自分のために、楽しんでやったかどうか、
いえ、楽しんでやっているかどうか、常に今ここで(現在進行形で)やっているかどうか、
それが真実なんだと思いました。
だから、誰かと比べるとか、誰かのためにとか、誰かに認めてもらいたいとか、そういったものは、不全心所なんです。
ですので上手くいかないんですよ。
ホント。
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今回は悪友について勉強したいと思います。
(4)「持ち逃げ屋」の見分け方 、(5)「善友かぶり」の見分け方
<悪友の見分け方>
悪友には以下のパターンがあります。
(すぐ分かるパターン)
・賭博者
・耽溺者(異性・食べ物・飲み物などなんにでも溺れてしまう性格)
・大酒飲み
・詐欺師
・騙し屋
・粗暴
(見分けがつきにくいパターン)
・持ち逃げ屋
・おしゃべり屋
・おだて屋
・地獄への呼び込み屋
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自分が幸せになれるかどうかは、自分が仲良くしている社会次第ということみたいです。
今日は、善友について勉強したいと思います。
(3)善友に勝る宝なし を参考にします。
・周りの影響で自分の人格が変わる
・どのように他人と関わるかは自分の責任
・周りを変えることは出来ないが、自分の心の管理は簡単に出来る
・優れた人々と付き合うと、優れた人間になる
・人間は互いに影響しあって成長する
このように善友というのは、とても大事なものなのです。
といっても、自分の足を引っ張ろうとしないならば問題はなく、自分を成長させてくれることは出来ない人であっても、自分の成長を応援してくれるのならば、大丈夫なようです。
善友だけと付き合うというのは、そもそも無理な話で、社会環境を捨てるということになってしまうのですね。
善友なんて滅多にいないのですから、見つけたら、決して離れないように努力しないといけないのです。
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人とのつきあい方というのを、ここを参考に勉強してみようと思います。
人付き合いというのは、この世に生まれてから死ぬまでずっとすることになります。
ですので幸せになるには人間関係というものは無視することが出来ないのです。
(1)エゴイストは後を絶たないから要点を抜き出してみると
・人は何かの目的があって人付き合いをする、
・人間はみんなエゴイスト
・人はそれぞれ感じ方が違う(自分以外の世界は知らない)
・人は味方を作ろうとする
・コミュニケーションで気持ちが通じたと思うのは錯覚
・人間は本来、孤独
・「私が正しい」と相手に押し付けるのは大問題
・誰かの価値観に無理に合わせるのも間違い
・認識の全ては歪曲している。(顛倒)
ということになります。
これだけ読んでも理解できない場合は本文を読んでもらったほうがいいかもしれません。
こういう世界で生きているのですから、人付き合いというものはストレスも貯まるし、競争や嫉妬もあって大変苦しいものなのです。
それなら、どうやって付き合っていけばいいのか?ということになります・・・
次の(2)悪友は貧乏神にはこう書かれています。
・愚か者とは付き合わない
・友人はしっかりと選ぶべき
・自分の周りを善い人間ばかりにしておくと幸せになる
悪友とは付き合ってはいけないということです。
ここでいう友人というのは、一般的に言う友達という意味だけではなく、付き合う人みんな(家族や先生や仕事の仲間などみんな)という意味だと思います。
悪友というのは、俗世間的な悪友と仏教的な悪友の2つの意味があるようです。
俗世間的な悪友は不親切な人、自分に損を与える人、陰で悪口を言う人、足を引っ張る人、付き合いにくい人。
仏教でいう悪友は、道徳的に自分にダメージを与える人です。たとえ親切にして優しくしてくれる人であっても、道徳的に悪い方向へと誘惑するのは悪友なのです。
また、こうも書かれています。
嫌な人であっても悪友とは限らない (自分のことを叱ってくれたりする人など)
悪友をきちんと見分けるということですね。
こうやって悪友とは縁を切ったほうがいいようです。
といっても、今まで付き合っていた人々を次々と切るというわけではなく、どうしても立場上付き合わなくてはならない状態にあるのなら、
「社会的な立場では知人だが、心の善友とは違う」とわきまえること。
精神的な影響を受けないようにすること。
これが大事なようです。
もう少しこのテーマは勉強してみたいと思います。
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心所・・・認識するとき、そこで生まれる感情のこと。感情の中で探した普遍的なもの。判断・妄想まで行く前の段階。心の成分。
・心所は52種類ある。
・不善心所と善心所、どちらともいえない働きのみの心所の3つに分類される。
<心と心所について>
世の中で水といえばたった一つしかない。
水素2つに酸素1個の繋がりのH2O。
でもその純粋な水だけの水は全く実在しない。
六甲の水、北アルプスの水、海水、井戸水などどれも成分が違うもの。
水にお茶が溶けるとお茶になるが、水はたっぷり入っている。
コーヒーが水に溶けるとコーヒーになって、水が入っていることは意識しなくなる。
そのように心に必ず溶けている感情が心所。
「怒っている」「優しい」「偏屈」「こころが広い」など、みんな心所が溶けた「こころ」。
・身体の痛みやだるさも身体にあるのではなく、心にある心所。
・我々は本当に歳を取るのか、本当に弱くなるのか、それを決めているのも心。
心自体には何歳という観念は全くない。
自分が60歳だと心で認識すれば、心が60歳に相応しい感覚・感情を受け取らなければいけない、と考えるだけ。その感情が何なのか本当には分からないから、人に聞く。
そうすると、60歳では身体がこのように痛んで膝が固くなって歩くときもよろめくものだなどいろいろ教えてもらう。
そうすると心が身体にそういう現象を全部作ってくれる。
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心・・・魂、自我というような実体があるのではなく、ただ休みなく認識し続ける機能が働いているだけ。
・すべての問題は、「私がいる」と思っていることから始まる。
・どんな生命にも認識する働きはある。
勉強をして知識を増やせば増やすほど苦しみも増える。
お茶を煎れるにしても、ただ葉っぱとお湯をまぜるだけで煎れられるけど、お茶の煎れ方をとことん勉強したら、もう簡単にいい加減にはいれられなくなり、難しい仕事になる。
お茶のプロになったら、自分も簡単に煎れるわけにはいかないし、他人が適当に煎れると怒りまで生まれる。
煩悩や苦しみが増えるのが、世の中の知識の世界。
仏教の知識の世界は全く逆。
勉強すればするほど気持ちが軽くなるように、別に知らなくてもいいのではないかという方向にもっていく。
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勝義諦とは「優れている、究極の真実」という意味。
勝義諦は「言葉」という世俗諦を浸かってしか説明できず、本当の勝義諦は実際に体験してみないとどうしようもない。
言葉のレベルでしか理解できないと、勝義諦だと説明しても世俗諦になってしまう。
様々な問題が起こるのは、ここに私がいて、何かを認識するから。
同じ1つのものを見ても、一人一人バラバラの認識をする。
だから議論が起きたりする。
だけど、その元となる情報自体は同じだったはず。その情報そのものを捉えるのが勝義諦。
ものごとはすべて変化する現象だけで、何の実体もない。
究極まで分析すると勝義諦は4つしかない。
心(しん)と心所(しんじょ)と色(しき)と涅槃(ねはん)の4つ。
心とは眼・耳・鼻・舌・身・意の6種類の認識する働き。
心所とは認識と一緒に生まれる感情のこと。
色とは色(いろ)・形など目に見え、触れることが出来る、壊れる・変化する物事。
涅槃とはこの3つの世界をすべて理解し何ものにも囚われる意味がないという智慧の感情が生まれ、そこで体験する世界・状態のこと。
我々が生きているこの世界には心・心所・色の3つしかない。(世間諦)
この世間諦を乗り越えたら涅槃という状態が生まれる。
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最近、アビダンマの勉強も始めました。
今日はその中で世俗諦というものについて覚書です。
・アビダンマでは真理には二種類あると言う。
世俗諦と勝義諦の2つ。
・世俗諦はみんなで何か話し合って最終的にこうしましょうと決めた真実のこと。
・世の中で我々が考えたりしゃべったりして作っている知識すべて世俗諦。
・我々が真実だと思っているものはすべて、人間の世界でそう決まっているだけ。
徹底的な真実・真理・論理的な根拠はない。
だからといって間違いでもない。
なぜなら、みんなでそう決めたから。だから、我々はそれに従わないといけない。
・世俗諦を決める「みんな」もいろいろ。
人間が決めている決まりも、犬猫が決めている決まりも、昔の人が決めた決まりも、
科学的な真実と言われているものもみんな世俗諦。
・世俗諦、世の中の決まりはそれほど厳密に真剣にやらなくてもいい。立場によってころころ変わるのだから。
・科学の歴史はあまり長くないが、そのわずかな歴史の間にも、真理がころころ変わっている。世俗諦というものは変化するもの。
・昔ながらの自然食の生活こそが、質素で健康的だと言う人もいれば、世の中には食べるものも得られず、食べられる物なら何でもいいと思っている人もたくさんいる。
・世俗諦はある程度みんなに共通の真実。ラジオを見せてカバンと答える人はいないように。ただ、それを見て十人が十種類の応えを言うのだから、唯一絶対の真実ではない。
・世俗諦を理解すれば、自分は勉強は出来ないけど、人それぞれだから、自分は他のことで頑張るぞとなれる。
・世俗諦で「時計」というものを決めたとして、時計を見せてこれが時計であるということは真実とはならない。バラバラに分解してねじや針などの部品だけになってしまったら「時計」そのものはなくなってしまう。
・話の内容も世俗諦。
その人その人の立場で話すので、Aさんにとっての真実はBさんにとっての真実とはならない。
参考文献:ブッダの実践心理学 第一巻
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右足、左足、一歩ずつ踏み出していけば、やがて目的地に着きます。
これが歩くということ。
右足、左足、右足、左足、一歩ずつきちんと歩けているでしょうか?
右足、左足と踏み出すと同時に頭の中で言葉にしてみてください。
歩いているということを確かめながら。
しばらくすると、決まってよそ事を考えてしまいます。
今日あったことや、明日のこと、昨日のことなど。
右足、左足と一歩ずつ歩いているはずが、そのことに集中できないんですね。
きちんと歩けていないんです。
1分が60個集まって1時間です。
1時間が24個集まって1日です。
1日が365個集まって1年です。
この1分が右足だとすると、次の1分が左足。
その繰り返しが1年です。
そうするとその1分に集中して生きることってなかなか難しいことになります。
その1分(1秒でも1ミリ秒でもなんでもいいです。)を生きることが”今を生きる”ってことです。
そう見てみると、1日のうちほとんどが今を生きてないんです。
昨日のことを考えていれば昨日を生きている、明日のことを考えていれば明日を生きていることになります。
今を生きていけば明日になるんです。
まずはきちんと歩けるようになりたいですね。
これがヴィパッサナー瞑想法なんです。
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自分ではそう思っているだけかもしれませんが、積極的に家事をするようにしています。
食器洗いや洗濯物を畳んだり、風呂掃除など。
最初は、面倒くさがりながらも言われてやっていたのですが、
だんだんと、妻のために手伝おうという意識が生まれて来ました。
でも、最近では自分のためにやるようになりました。
相手のために何かをやるという意識自体は、良さそうに見えても実際には少し
傲慢な気持ちが含まれていたのです。
知らないうちに何かをやったとき相手に見てもらいたい、感謝してもらいたい、
認めてもらいたいといった見返りを求めてしまっているんです。
ですので、相手からその見返りがないときにイライラしてしまうんです。
そうすると結局、良い行為よりも悪い好意となってしまうわけです。
正法眼蔵入門を読んだときに書いてあったのですが、
「掃除や洗濯、炊事なども読経や坐禅と同じように、重要な修行の一つである」
ということです。
言ってみれば、自分の徳となるのです。
自分にとっていいことなのです。
ですので、家事をやるということは自分のためにやるものなのです。
それならば、イライラもしませんし、良い行為のまま終わるのです。
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仏教を勉強しているってことは、あえて周りの人には教えていません。
例えば職場なんかでは話題にも出しませんね・・・
それは、何故かといいますと、
日本人って(ひとくくりにしてはいけないとは思いますが、多くの人はってことです。)
どこか宗教というものを毛嫌いしているところがあるからです。
仏教を勉強していると言ったら
「大丈夫ですか?」とか、「怪しい」とか、
「変なのに引っかからないほうがいいよ」といった答えがほとんどだと思います。
でも、ちょっと待ってください。
あなたはお墓参りはしたことはないのですか?
お寺でお葬式に参列したことはないのですか?
初詣は?
日本人は、密接に宗教に関わっているにもかかわらず、その元となるところを全く知らないのです。
それなのにお墓参りをしたりお葬式では念仏を唱えたりするんです。
なんか変ではないですか?
風習といいますか、みんながやっているから私もやるということばかりです。
ですので、本当の仏教というものは、もちろん知らない人がほとんどですし、
怪しいとされる新興宗教となんら変わりない部類に入ってしまってるんだと思います。
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